戦後80年 東京大空襲と下町―地域ゆかりの講演会に参加して
葛飾区中央図書館が企画した講演会に参加しました。東京大空襲・戦災資料センターhttps://tokyo-sensai.net/運営委員で東京大空襲を8歳の時に体験した二瓶治代さんからお話を聞きました。
葛飾区でも空襲があったが、3/10現在の亀戸で東京大空襲に遭った。最初は戦争に勝っているという雰囲気だった。しかし、気がついたときには大変なことになっていたという印象がある。大東亜でなくアジア太平洋戦争と呼ぶ。
1941年ごろB29の空襲に遭っていたが、戦勝ムードの中にあった。1944年夏ごろマリアナ海戦で日本の基地がB29の爆撃に遭い、11月に中島飛行機武蔵製作所が空襲に遭い、戦況はどんどんひどくなっていたが人々はピンと来ていなかった。1945年になると、人々は「おかしい」「負けているのではないか」と言い出すが、新聞やラジオは勝っていると報道していた。治安維持法があったので、思っていることを言えなった。国民学校の3年生以上は学童疎開していたが、東京大空襲の前に集団疎開をしていた6年生が卒業式のために帰ってきていた。当時の遊びは戦争ごっご。実は文部省がこの遊びを奨励していた。灯火管制があったので8時には床についていた。
下町には100万人が住んでおりアメリカは人口密度が高いところを狙った。自分の上に炭のような焼死体が重なり助かった。壁に寄りかかったままの死体、子どもを抱いた焼死体、防空壕の中では全員が死んでいた。明日遊ぼうと別れた子どもたちとは会えなくなった。家族とは再会したが、妹がやけどを負っていてウジが湧いて、医師に診てもらったが、油(食用油)を塗ったほうがいいと言われたが油がなかったところ、見ず知らずの人から譲ってもらって助かり、その後教師になった。日本は80年間直接戦争をしていないが、戦争の本当のことを当時知ることができなかった。戦争を知らない人は知る努力をすること、戦争に対する想像力が必要だ。
語り部になったきっかけは
60年間忘れたかった。2002年江東区砂町に亀戸に資料センターができたときに見学に出かけ、そこで小中学生に話をしたときに聞いてくれていると実感したことで話をするようになり、戦災資料センター運営委員にもなった。
アメリカに対しての気持ちは
2015年に捕虜になったアメリカ兵を招聘。96歳のB29の飛行士がセンターに訪問された。黄色いネズミ、いくら殺してもいいと当時は言っていたが悪いことをしたと泣き出した。同じ地球に生まれた人間であり、戦争がいけないのだと思う。
今の状況をどう思うか
不安に思う。戦争が起こる前の戦前と重なる。本当のことを知ることが薄れている。自分事と思っていない。はっと気が付いた時には戻れない。新しい戦前にしないために今が大切な時代だ。
二瓶さんをはじめ戦災資料センターの運営委員がコロナ禍を経て20人から5~6人になった今は継承活動に力を入れています。また公的援助はなく、寄付によって支えられています。戦後80年、いずれ戦争体験者がいなくなり直接聞くことができなくなることを考えると戦争の記憶を継承していくこと、特に普通に生活していた人たちの話は大事だと思います。また、体験者の方たちがやっと話すことができるようになった今、それぞれの体験を後世に残し2度と戦争にならないように私たち一人ひとりが努力する必要があります。会場で焼夷弾(空襲では38発のM69が700m上空でばらまかれた。形状は筒状:長さ30㎝直径7~8㎝くらい)を初めて手にし、ずっしりとした重さを感じました。